空は夜明けを告げようとしていた。
美しい満月は差し込む朝日に追いやられ、その輝きを失いつつあった。
月の裏側の裏側
窓の外に広がる街はまだ眠っていたが、俺はすでに旅立ちの支度を終えていた。
彼女と過ごすのは一晩だけ。
これが俺の決めたルールだった。
甚だしく身勝手なルールであることは承知の上だが、こうでも決めておかないと俺はきっと、ここから旅立てなくなる。
ならば初めからこんなところに寄らねば良いのだが、それができるのなら俺がこうしてぐちぐち悩む必要も無いわけで、とにかく、できないことを言っても仕様の無いことだ。
そしてもうひとつ、旅立つ前のルールがあった。
「おい、アメリア、起きろ」
「……むぅ。…………ぐー……」
彼女は元来寝起きはいいほうだ。
が、それは十分に睡眠をとった場合のことであり、もちろん昨夜、十分な睡眠など取れるはずも無く、従ってアメリアがすぐに起きてくれるはずも無かった。
布団を引っぺがせば、枕を抱えて丸くなる。
声をかければ、ますます枕にしがみつく。
頬たたけば、無意識ながらも拳が飛んでくる。
その睡眠に対する執着は見事だが、起きてもらわねば話が進まない。
俺は、最終手段に出ることにした。
彼女の頭側に回り込み、手の位置を考え、安全地帯を見極める。
そして彼女が幸せそうに顔を埋めているその枕、これがまたやたらとでかくてふかふかしているんだが、これを逆手に取り、端っこを掴んだら一気にひっくり返す勢いで顔の上に置き、押さえ込む。
こうすると誰でも一発で起きる。
というか、起きなきゃ死ぬ。
事実、アメリアも最初はもごもご言うだけだったが、今は足をばたつかせ、俺の手を引っかこうとしてやがる。
ここで、生身の人間であれば痛い思いをしたり、また被害者の爪に残った皮膚から御用となってしまうわけだが、キメラの俺には関係の無いことだ。
すでにアメリアの抵抗も弱々しくなっており、その腕の色も少し紫がかって…………ちょっと、やばい。
「ぷはぁーーーっ! けほけほっ。
ゼッゼルガディ、スさん、ころっ殺す気、で、すかぁー!!」
「おはよう、アメリア。朝焼けが綺麗だぞ」
不思議なアクセントで俺を責めるアメリアの気を逸らそうと、話題を変えようとしたのだがうまくいかず、結局鉄拳制裁を喰らうことになった。
だがまあ、これも予想範囲内の被害だ。
「んもぅ。いつもいつもこんな起こし方して。やめてくださいって言ってるのに」
「お前が普通に起きてくれるんなら、俺も普通に起こしている」
「でも、こんな朝早くでなくったって……」
「それは俺のポリシーの問題だ」
アメリアがなんと言おうとも、男にはどうしても譲れない矜持というものがあるのだ。
「まーたそんなこと言っちゃって。
見つかりたくないんなら、わたしがこっそり逃がしてあげるのに」
「お前は俺に、シーツか何かに紛れ込んで、洗濯物と一緒に脱出しろとでも言う気か」
「あ、その案は駄目です。
洗濯物のカートが壊れちゃいます。ゼルガディスさん重いから。
ここはやっぱり、ダストシュートを滑り落ち…」
「却下だ、却下!! 誰がそんなことするか!
大体、お前んとこのはそのまま焼却炉につながってるだろうが」
「ゼルガディスさんなら大丈夫ですって! あ、でも髪の毛は溶けちゃうかも」
「恐ろしいことをさらっと言うな!!」
髪が溶けたら俺は首を括る。いやマジで。
「とにかく俺は行く。見送れ」
「……ゼルガディスさん、なんか偉そう」
「文句を言うな。そもそもお前が言い出したことなんだぞ」
そう、事の発端は最初のときの次の朝のことだ。
ちなみに最初のときというのはアメリアが初めてであって、もちろん俺にはそれなりの経験があるため、まあイロイロあったものの、我ながら良くやったと今思い出しても自分を褒めてやりたくなるようなときのことで、このことは事細かに、それこそアメリアの協力さえあれば事実を忠実に再現してやれるほどしっかり鮮明に覚えているのだが、教えてやらない。ざまあ見ろ。
……と、話が脱線してしまったが、要するに次の朝、俺は彼女に何も言わず旅立ったのだ。
そして再びセイルーンに足を踏み入れ、彼女を訪ねたときに事件は起こったのだった。
〜以下、回想シーン〜
「久しぶりだな、アメリア」
「ゼルガディスさん……!」
日の落ちた宵の空は暗く、薄いカーテン越しにテラスに佇む人物の顔は見えなかった。
だがその声を聞いた瞬間、それまで身構えていた少女はぱっと駆け出し、思いっきりカーテンを引いた。
部屋の明かりに照らし出されたのは、白い服を着た背の高い男だった。
フードから覗くその顔は、明らかに人間ではなかった。
しかし、この部屋の主である少女には、そんなことは全く関係無いようだった。
「ゼルガディスさんっ!!」
少女は男の名前を呼び、その胸に飛び込んでいた。
「……ただいま、アメリア」
男も少女を抱き返し、彼女の耳元でそっと囁いた。
そのまましばし、二人は声も無いままに、ただ、抱き合っていた。
やがて、少女は顔を男の胸に埋めたまま、口を開いた。
「どこに行ってらしたんですか? ずっと……寂しかったですよ」
「ああ、すまん」
「何にも言わないで出て行くんですもん。ずっと不安で……寂しくて……」
「ああ、本当にすまなかった」
男は腕に力を込め、そして少女の異変に気づいた。
少女は相変わらず男の背中に腕をまわし、胸に顔を埋めていたが、その小さな手には尋常ならざる力が篭り、体はこわばり、小刻みに震えていた。
「ア、アメリア?」
少々上ずった男の声は、しかし彼女の耳には届いていないようだった。
「心配で…ムカムカして…だんだん腹が立ってきて……そーですよ。
どーしてあんなコトしといて黙って出て行っちゃうんですか〜〜っ!!!」
やわらかな抱擁は突然、凄まじい締め付けのベアハッグへと姿を変えた。
その威力たるや、岩をも砕く勢いである。文字通り。
「ちょ、ちょっと、待って……」
「翌日、わたしがどんな思いでいたと思うんですか〜!
なんか痛くて、うまく歩けなかったしぃ〜〜!!」
「そ、それ俺のせいじゃな……」
「問答無用ッ!! 受けよっ正義の鉄拳!!!」
次の瞬間、男の体は宙に浮き、気が付いたときには背中から床に叩き付けられていた。
なんと少女は岩石製の男相手に、スープレックスぶちかましたのだ。
そして、あまりの衝撃に声も出ない男に飛び掛り、その身にたっぷりと“正義の鉄拳”をお見舞いするのだった……。合掌。
※ベアハッグ・・・相手の胴回りに両腕を回して持ち上げ、絞め付ける技。柔道のサバ折り。
※スープレックス・・・相手に抱きつき、後方に反り投げる技。
〜回想シーン、以上〜
「出て行くときは必ず見送らせてくれ、そう言ったのはお前だぞ」
「それはそうですけど…」
アメリアは下を向きなにやら両手をこねくり回していたが、やおら顔を上げ、潤んだ瞳に上目遣いで俺を見つめた。
「ぶっちゃけ、もうあんまり新鮮さも無いし、日の出頃に起こされるくらいなら寝てたいなーとか」
「……………………まじですか?」
「いいえ。ちょっといじめてみたくなっただけです」
上目遣いのまま言い切ったアメリアに、俺の何かがプチンと切れた。
「出てくっ! 今すぐ出てってやる!!」
「ああっ嘘です! 嘘です! 謝りますからそんなこと言っちゃイヤですぅ〜〜!!」
「うるさいっ !嘘でも言っていい嘘と悪い嘘がある! 俺は出てく! もう二度と来るかっ!!」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってください! ゼルガディスさん!」
「離せアメリア! 俺は出てい、く…」
「やっゼルガディスさん! お願いです! 本当に謝ります!!
だから、お願いですからもう来ないなんて言わないで……」
「……」
「お願いだから、言わないで……」
アメリアは俺の腕にしがみつき、必死に懇願を繰り返す。
伏せた顔は見えなかったが、彼女が泣いていることは容易にわかった。
またやっってしまった。
俺はため息を付いた。
彼女にこんな中途半端な関係を強いているのは、俺だ。
彼女につらい思いをさせているのは、俺だ。
彼女を泣かせるのは、いつも、俺だ。
いくら彼女の言葉に腹が立っていたとはいえ、俺は絶対に言ってはいけないことを言ってしまったのだ。
悪いのは、俺だ。
「すまん、アメリア。ひどいことを言った」
「……いいえ。悪いのは、わたしです。ほんの冗談のつもりで、あんなひどいことを……。
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
「もういい。心にも無いことを言ったのは俺もだ。だからもう、泣き止んでくれ……」
アメリアを引き寄せ、思い切り抱きしめた。
彼女はそっと俺に体を預けた。
「……また、会いに来てくれますか?」
「ああ。お前に、会いに来る」
会わずにはいられない。
彼女無しではいられない。
キメラだとか、王女だとか、そんなこと頭から吹き飛んじまうくらい、俺は、アメリアが好きなのだ。
「……良かった」
アメリアは顔を上げ、まだ涙の残る顔で、にっこり笑った。
俺は胸にこみ上げてくるものを言葉にすることができず、ただ黙って、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「もう、夜が明け切っちゃいましたね」
「ああ。そうだな」
俺が起きたときはまだその縁しか見えなかった太陽は、いまやすっかり昇りきり、その姿を東の空に晒していた。
「綺麗ですね」
「……そうだな」
朝焼けなんかより、目尻を赤く染めたアメリアのほうがずっと綺麗だ。
なんてことが言えるはずも無く、俺はぼんやり彼女を見つめ、しきりに考えていた。
体のこと、旅路のこと、セイルーンのこと、アメリアのこと、アメリアとのこれからのこと。
だが、何一つとして答えは出なかった。
「ゼルガディスさん」
アメリアは俺に向き直り、ふわりと微笑んだ。
どくりと、俺の中で何かが脈打つ。
愛情、恋慕、それだけではない何か、重く暗いもの。
それは俺の咽に引きつるような痛みを与え、声を閉ざす。
伝えたいことは山ほど有ったが、咽を抜け、空気を震わす言葉はひとつも無かった。
「ゼルガディスさん、昨日わたし、月のことを聞いたでしょう。
あれね、なんだか月とゼルガディスさんが似てるような気がしたからなんです」
いきなりそんなことを言われても、俺は彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「わたし、あなたのことが好きです。あなたといると、すっごく幸せなんです。
昨日月の裏側には何があるかわからないって言いましたよね。
ゼルガディスさん、わたしには何も言ってくれないでしょう?
だからあなたが何を思っているのか、本当にわからなくて、
全然理解できなくて、イライラしちゃうこともあります。
でも、あなたが優しい人で、わたしのことを真剣に考えてくれていることはわかります。
だから、これから先もあなたのことを全部理解できるかわからないけど、
ずっとずっと、わたしはゼルガディスさんのことが大好きです」
アメリアの言葉に、俺は動けなかった。
指先どころか、視線すら動かせなっかった。
「それでですね、ゼルガディスさんも、わたしのことで理解できないこと、いっぱいあると思うんです。
わたしは王女なんて立場だし、正義のことだってあるし……。
ううん、それだけじゃなくて、不安だとか嫉妬だとか、わたしの中の汚い気持ち、
何一つあなたには話せなかった。
でもですね、そんなこといいんです。
ただ、わたしはあなたに、優しくて暖かな光を届けたい。
あなたがわたしに幸せをくれるように、わたしもあなたを幸せにしたい」
「わたしはあなたの、月になれますか?」
気が付けば俺は、彼女を掻き抱いていた。
自分の声はみっともないほど震えていた。
混乱した言葉の羅列は、自分でも何を言っているのかわからなかった。
だけど今、俺は言わねばならなかったのだ。
熱を帯びた頭は、ついさっき自分がしゃべった言葉さえ覚えていなかった。
だが、俺は自分が最後にこう言ったのを、確かに聞いた。
「アメリアに会うことができて、俺は幸せだ。
そうだ。俺はすごく、幸せなんだ」
俺がしゃべっている間、アメリアは何も言わなかった。
ただ、黙って聞いていてくれた。
そして話し終わると、俺をやさしく抱きしめ、「ありがとう」と言ってくれた。
それで俺は、俺がちゃんと伝えるべきことを伝えることができたのだと知った。
月の裏側にたとえ何があろうとも、彼女は毎夜月を見上げるだろう。
そして俺のことを、想うだろう。
それを知っている限り、俺は、幸せなのだ。
あとがき
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