「月の裏側には何があると思いますか?」
美しい満月が顔を覗かせる窓の下で、彼女は唐突にそう言った。
月の裏側
ここはセイルーン王宮、アメリア王女の私室。
一国の姫君がこんな真夜中に、男と一緒にぼんやり月を見ているなんて、誰が信じるだろう。
しかも、相手の男はお尋ね者の合成獣だ。
とても褒められたものではない。
そして、それは自分にとっても同じこと。
俺には何よりも優先すべき目的が有り、こんなところに寄ってる暇は無いはずだった。
だが、どれほど自分を叱咤しようとも、事あるごとに彼女の部屋へ向かおうとする足を止めることはできなかった。
そしてまたアメリアも、テラスからの侵入者をいつも笑顔で招き入れた。
今もその何度目かの逢瀬の中、まだ冷めやらぬ熱を持て余し、二人並んで窓の外を眺めているところだった。
開け放たれた窓から、冷たく少し湿り気を帯びた夜の空気が侵入し、長いカーテンを揺らしていた。
「……なんだって?」
「もう、聞いてなかったんですか。
月の裏側には何があると思いますかって聞いたんです」
言葉は聞こえていたが確認のために問うてみると、彼女はむくれながらも同じ言葉を返してきた。
「月の裏側、か」
「ええ、そうです。
お月様は、私たちにはいっつも同じ面しか見せてくれていないそうですよ。
逆にお日様はよく観察してみると、表面の模様がゆっくり動いてて、
それで太陽はちょうどライティングの光のようにまあるくて、
クルクル回っているんだと判ったんだそうです」
「へえ。よく知っていたな」
「えへへ、少し勉強したんです」
得意げに話すアメリアの頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうに笑った。
「で、だから月の裏側がどうなっているのか、誰も見たことが無いんです。
ゼルガディスさんは月の裏側、どうなってると思います?」
突拍子も無い問いかけに、少しは考えてみたのだが、彼女が気に入りそうな答えはあいにく浮かばなかった。
これはお手上げだ。
だが彼女との付き合いも長く、こういうときの対処法はすでに学習済みだ。
「……アメリア、お前はどう思うんだ?」
「わたしですか?
そうですね……わたしはやっぱり、月も太陽と同じできっとまん丸で、
蜂蜜みたいな、やわらかーい黄色をしているんだと思いますよ」
「蜂蜜、ねえ。それじゃあ時々月が赤く見えるのは、どういうことなんだ?」
「それはきっと、お月様が怒ってるんですよ」
「……そうか」
「そうです」
返す言葉が見つからず黙っていると、アメリアは俺に体を寄せ、月を見上げて囁いた。
「黄色は幸せの色です。
綺麗なお月様を見てやさしい気持ちになれるのは、きっとお月様が幸せだからです。
あなたとこうやって月を眺めることは、わたしにとって、一番幸せなことなんです」
俺は彼女を抱き寄せ、その唇にキスをした。
安らかな寝息を立てるアメリアを腕に抱き、俺は一人、月を見上げていた。
たった一人の愛しい存在。
でも、やっぱり俺たちは正反対だ。
あの奇麗な月の裏には、きっと想像もつかないような無秩序で、醜悪で、デタラメなモノがあるに違いない。
表が美しく輝くほどに、裏のそれは醜さを増し、悪臭を放つ。
そうだろう?
だって、そうでなけりゃ不公平だ。
俺は奇麗なままではいられない。
俺はそれが増殖していくのを止められない。
お前に優しく微笑むたびに、俺の中でそれが膨らむ。
それは重く、確かな存在感でもってじわりじわりと這い上がってくる。
特にこんな奇麗な月の夜には。
夜風に冷えたのか、アメリアが小さく肩を震わせた。
ずり落ちた毛布をかけ直してやると、彼女はくすぐったそうに体を曲げ、薄く目を開いた。
「……ゼルガディスさぁん」
明瞭としない発音で俺の名を呼ぶアメリア。
「ああ、ここにいる」
「……はぃ」
呼びかけに答えると彼女は嬉しそうに笑い、また深い眠りの中へと落ちていった。
君が無邪気に笑うから、俺も静かに微笑んだ。
君をまたひとつ好きになったから、俺の中でそれが震え、また膨らんだ。
あとがき
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