夕日の道はまだ遠く、朝の海から歩き出す
堤防の上で、どこまでも広がる紺碧を見下ろし、海が大好きだとアメリアは言った。
だがセイルーンは内陸国で、海に来たのも数えるほどしかなく、泳ぎは苦手なのだと、小さな声でそう付け加えた。
ゼルガディスは、俺は泳ぐどころか海に浮くことすらできん、とふてくされたように呟いた。
それじゃあ体が元に戻ったら、二人で一緒に海に行きましょう。
泳ぎを教えてくださいね。一緒に泳いでくださいね。
彼女は笑ってそう言った。
彼は彼女を横目で盗み見て、ああ、と答えた。
眼下に広がる海は、中に途方もなく大きなものを内包した深い青。
昇って間もない太陽の光を受け、きらきらとせわしなく瞬いていた。
もう一度彼女を盗み見て、やはり似ていると彼は思った。
朝の海は、彼女の瞳。
彼は一人、堤防の上から海を見下ろしていた。
夜の海を見た。
朝の海を見た。
昼の海を見た。
そして今は夕暮れの海を見ている。
刻々と表情を変えるその海は、彼の心にも、確かに小さな細波を立てた。
しかし、か弱い波は、彼の心の中心にある硬いものに阻まれて、白い泡の中に溶けて消えた。
それでも彼は、海を見ていた。
彼がここに立ち寄ったのは、全くの偶然だった。
それまで思い返しもしなかった。
暗い暗い意識の底に沈めたはずの記憶は、もう二度と思い出さないはずだった。
だが、それはふとしたきっかけで、小さな泡が漏れ出すように浮かび上がる。
きっかけは本当に些細なもので、いざ出会うまで見当もつかず。
浮かんでくる記憶は、それ以上に予想しがたかった。
海を見たとたん浮かび上がった淡い約束の記憶は、彼の足を地に縫いつけた。
足が止まり、進めなくなる。
魅入られたように海を見詰め、そのまま動けない。
泣くにはあまりにも優しくて、懐かしむにはあまりにも残酷な記憶。
彼女はそんなものばかりを残していった。
そしてもうひとつ。
彼女の瞳と同じ色の護り石を、残していった。
海に沈む夕日は壮麗だった。
西の空は朱色に染まり、頭上で藍と交じり合う。
朱に照らされながら、海はそれでも青のかけらを映し出す。
そして地平線に溶け出した太陽は、海の上でこちらを目掛け、輝く腕を伸ばしている。
鈍く、のたうつ水面に輝くそれは、夕日へと続く道に、ゼルガディスには見えた。
この上を歩いていけば、あの眩しい場所へと辿り着けるような。
それは、甘美な誘惑だった。
太陽に見惚れ、夕日の道へと踏み出せば、この身は瞬く間に冷たい海に沈んでゆく。
それでも、試したい。
そう思わせる何かが、この目の前の世界にはある。
そして、たとえ沈んだとして、かまうものか。
そう叫んでいるものが、ゼルガディスの中にはいる。
目を海にやったまま、ゼルガディスは自分の左をそっと探った。
そこには彼の水筒があり、小さな護り石が結んである。
もはや己の一部のように慣れ親しんだそれをきつく握り、海を見たまま、ふと思う。
このままこいつと沈んだら、少しだけでも、約束を果たしたことにならないか。
さすがに泳ぎは教えられないが、深く深く、共に潜っていくことはできる。
あの太陽の下、海の中、ふかくふかく、どこまでもふかく……。
彼は一歩、踏み出していた。
靴の下で、踏まれた砂利が耳障りな音を立てた。
だが、彼の耳には入らない。
彼の世界は、眼前の海と太陽だけだった。
この地面を蹴り出せば、いい。
そうすれば。
しかし彼は、それ以上踏み出せなかった。
自分はこんなにも、あの海へいきたがってるのに、まだ、邪魔をするものがいる。
何かひとつ、背を押してくれるものが欲しかった。
彼はゆっくりと、左の拳を持ち上げた。
この中に彼女の護り石がある。
いつだって、自分に勇気を与えてくれた。
この石を見れば、きっと勇気が湧いてくる。
きっと足を踏み出せる。
彼はそっと、指を開いた。
だが、最初に指の隙間から覗いたのは、懐かしい青ではなく、刺し貫くような一条の光だった。
朱に照らされながらも、護り石が反射したのは、灼けつくような、鮮烈な白。
眩しすぎる光に、思わず一瞬目を閉じた。
再び目を開いたとき、そこはもう彼の世界ではなかった。
彼はもう、あの海に飛び降りることはできなかった。
あれほど彼を誘惑していた太陽も、今はよそよそしく、輝く海も気だるげに光を跳ね返すだけ。
手の中の護り石も、あの激しさが嘘のように、ただ穏やかに照らされている。
彼はもう一度、夕日を見詰めた。
少し前まで、確かにそれは彼の世界にあった。
だが今はもう、遥かに遠い異国の風景のようだった。
ゼルガディスは、太陽が一日の終わりを告げるのを見届けてから、そっと海に背を向けた。
大切な護り石をいつもの定位置に着け、ゆっくりと歩き出す。
彼は腹を立てていた。
ちくしょう。
先に約束を破ったのはお前のほうだ。
なのに、まだ俺にそれを強いるのか。
彼はあの時、白い光に貫かれたとき、声を聞いた。
終焉を告げる夕日は、まだ、あなたのものじゃない。
あなたはまだ始まったばかりだ。
これから始まる美しい朝を、あなたはちゃんと持っている。
だから、あなたは───。
ちくしょう。
勝手なことばかり言いやがって。
昔も今も、勝手なことばかりを言う。
そして俺は、そんな奇麗事を信じてしまう。
彼は足元の小石を思い切り蹴飛ばした。
踏み出す地面は揺ぎ無く、一歩踏み出すごとに安堵と倦怠が滲み出す。
ちくしょう。
腹の底から湧き上がる怒りは消えない。
だがその影に、底知れぬ悲しみと、笑い出したくなるような清々しさが隠れている。
ちくしょう。
目から熱いものが溢れそうになって、彼は慌てて上を向いた。
滲んだ視界は濃紺に塗りつぶされている。
それでもやがて朝はやってくる。
彼女が自分に、それを教えた。
「……ちくしょう」
彼の声は掠れていた。
目の縁から熱いものが流れ落ちる。
そのことに彼は少し、狼狽した。
こんなみっともないところを、あいつに見せてたまるものか。
だから彼は、どこにいるとも知れない、しかし、きっと自分を見ているであろう彼女に向けて、笑ってやった。
精一杯の強がりと、ほんの少しの感謝を込めて。
あとがき
BACK