澄み渡った空は声や光だけでなく、緊張感さえも何の劣化も無く届けてしまうものなのだろうか。
アメリアはそんなことを考えていた。彼女自身はいつも通りに振舞っているつもりなのだが、今日は彼との会話が少ないように思える。そして訪れる沈黙に、ぴりぴりと痺れるような緊張を感じるのだ。
ゼルガディスはもともと口数の少ない男である。今日だって、交わした言葉の数自体は、いつもと変わらないだろう。しかし彼は、今朝から一度も、彼女と目を合わせていない。否、合わせようとしない。それはやはり、彼にも何かしら思うところがあるからなのだろう。
だったら嬉しいな、と彼女は思う。
間もなくやってくる別離を思えば、今この場でひっくり返って子供の様に泣き喚いてしまいたかったが、それでも彼女は心の片隅に、暖かさを感じることができた。
顔を上げ、澄み渡る空のあまりの青さに、彼女は目を細めた。鼻を抜ける空気を感じるたびに、涙が出そうになる。それでも構わず、大きく手を振り、彼の隣を歩き続けた。勢い良く手を振り上げると、その手に着けたアミュレットが太陽を反射し、深い青が眩い光を放った。
やがて、少し開けた場所で道は二股に分かれた。彼は足を止め、いつもより、ほんの少し低い声で彼女に告げた。
「アメリア、ここでお別れだ」
だからその手は離さないで
「悪いが、俺はあんたと一緒には行けない」
ゼルガディスはアメリアから目を逸らし、呟くように言った。
その言葉は予測済みだった。一言一句まで予想通りの台詞に、彼女の顔は思わず笑みを形作る。だが表情とは裏腹に、まぶたの裏に涙が溜まっていくのがわかった。ぐっと歯を食いしばり、顔を上げる。彼は相変わらず彼女を見てはいなかったが、それでも構わず口を開いた。
「わかりました。ゼルガディスさんの邪魔しちゃいけませんもんね。わたし、あなたの望みが叶うように祈ってます!」
声は震えてしまったが、涙を零すことなく言えたことに彼女は安堵した。そして続けて言うべき言葉を思い出し、慌てて捲くし立てた。
「あ、あの、それでですね、このアミュレット、持ってってくれませんか? コレ、お守りなんです。一個だけじゃあんまり効き目無いかもしれないですけど、でも…」
「……わかった。もらっておこう」
「あっ、ハ、ハイ!」
アメリアの顔がぱあっと明るくなる。
だが、ゼルガディスはそれでも彼女を見ようとはしなかった。うつむいたまま差し出された男の手に、彼女は慌ててその細い手首からアミュレットを外し、静かに乗せる。そしてそのまま、彼の手を両手で包み、そっと呼びかけた。
「ゼルガディスさん」
「……」
「ゼルガディスさん」
「……なんだ」
「こっち見てください」
「……」
「わたしを、見てください」
ゼルガディスが、ゆっくりと顔を上げる。しかし、その目線は彼女を捉えてはいない。アメリアはそっと両手を伸ばし、男の頬に添えると、やさしく自分の方に向かせた。
薄い碧の瞳に自分がが映っていることを確認し、アメリアは少し微笑んだ。単に、彼とやっと目を合わせることができて、嬉しかったからかもしれない。それとも、彼の瞳に、僅かな怯えを感じ取ったからかもしれない。
この別れに対して、彼が自分と同じ感情を、たとえそれが自分のそれの、何分の一か程度の小さなものであっても、感じてくれているのなら、それは喜ばしいことだと彼女は思う。この小さな満足感に勇気を奮い立たせ、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたの望みは叶います。たとえ、どんなに時間がかかろうとも、あなたはきっと、真に望むものを手に入れることができます」
「そんな奇麗事はたくさんだ」
「奇麗事じゃありません。真実です。きっと望むものを手に入れることができます。だから」
アメリアははにかむように微笑み、そっと囁いた。
「手に入れたものは、もう、放しちゃダメですよ」
言葉とともに、彼女の手がゼルガディスの頬から離れていく。彼の手はそれを追いかけ、しかし、捕まえることなく空を切った。
二人の視線が交錯する。
「…俺の手には、何も無い。今までも、これからも」
「いいえ、確かにありました。あなたの手の中に。今だって、少し手を伸ばすだけで、それはあなたのものになるんです」
「……」
「でも、あなたは手を伸ばさない」
「……」
「…それでもわたしは、いつだってここにいますから」
そう言って彼女は、ほんの一瞬、彼のアミュレットを握っている手に触れた。その感触に、胸が震える。その冷たい肌を何よりも愛しいと、強く、強く思う。
「だから、わたしを手に入れる勇気が出たら、攫いに来てくださいね。わたしは、伸ばした手を引っ込めるつもりなんて、全然ありませんから!!」
目に涙を浮かべながらも、彼女ははっきりとそう宣言した。驚いたように見開かれたゼルガディスの瞳に、最後にとびっきりの笑顔を見せると、身を翻して駆け出した。彼女の故国、セイルーンへと続く道へ。
残された男は、彼女のアミュレットを握り締め、ただ、その小さくなっていく後姿を見送った。
アメリアはとうとう、一度も振り返らなかった。
彼女の姿が視界から消えても、彼はしばらく、そのまま立ち尽くしていた。しかしやがて、踵を返し体を反転させると、一度だけ空を見上げ、歩き始めた。彼女とは反対の方向へ。
彼もまた、振り返ることはなかった。
だが、アミュレットが軋むほど堅く握り締められた拳を緩めることは、どうしてもできなかった。
あとがき
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