春のうららのにらめっこ
<1>
革張りのソファに挟まれたテーブルの上では、見えない火花が散っていた。
部屋の南側は全面ガラス張りになっており、まだ初々しい早春の陽光が室内を照らしている。窓の外には手入れの行き届いた西洋庭園が広がり、気の早い蝶たちが優雅に空を舞っていた。空気はまだ肌寒かったが室内から外を見ればそこはもう、生ける者たちが喜びを謳歌する季節、春そのものだった。
だが、この部屋の客人にそれを認識するだけの余裕はなかった。
のどかな窓の外とは異なり、そこは張り詰めた緊張感に満ち満ちていた。対面するソファに座る二人の人物のちょうど中間地点、すなわちテーブルの上で、それは最も高い濃度を生んでいる。
テーブルを挟み相対する二人の人物。
上座側に座すはこの部屋、否、この屋敷の主、フィリオネル=セイルーン。その堂々たる体躯と迫力の面差しから放たれるプレッシャーは、気の弱い者ならずとも逃げ出したくなるほどに強い。古い歴史を持ちながら、今なお躍進し続ける総合企業グループ、セイルーン・カンパニーの頭である。
その彼に対するは、まだ若き駆け出し研究者、ゼルガディス=グレイワーズ。細身ながらも硬く引き締まった身体を持ち、まっすぐ顔を上げて相手の視線を受け止めている。普段から氷のようだと評されるその表情に、動揺は見られない。だが襲い来るプレッシャーに負けまいと、握った拳は僅かに震え、緊張は汗となって頬に一筋流れていた。
つい先程までこの部屋にはもう一人の人物がいた。フィリオネルの娘であり、ゼルガディスの恋人でもある、今春大学卒業を果たしたばかりのアメリア=セイルーン。
彼女はこの部屋へ恋人を招き入れ父の前に座らせると、もてなしの茶を入れるため早々に退出してしまった。
彼女が出て行きドアを閉めた音以外、この部屋の空気を震わせたものはない。彼ら二人は彼女に紹介された顔合わせのとき以来、言葉を交わしてはいない。ただじっと我慢強く、目を逸らしたら負けだとばかりににらみ合っていた。
不意に沈黙を破る音が部屋に響き、二人は一瞬、小さく身体を震わせた。
ポッホー、ポッホー、ポッホー。
間の抜けたハト時計が鳴き終わるのを見届け、ふーっと長い息をはく。いつの間にか入っていた肩の力を抜いたところで、彼らははっと、相手を見やった。
気を抜いてはならない。
どうしても譲れぬ果し合い、もとい話し合いのため、ここへ来たのだ。
彼らは再び、にらみ合った。全身全霊の気合を込めて。
窓の外では蝶が舞う、一足早い春の庭。うららかな午後の時間は、垂れた蜂蜜のようにゆっくりとゆっくりと流れてゆく。
アメリアはまだ、帰ってこない。
<2>
アメリアは鼻歌を歌いながら、ワゴンを押していた。
いい日にはいいコトが起こるものだ。それともいいコトがいい日を呼んで来るのかしら。
外はうららかな春もよう。暖かな部屋では、大好きな父と大好きな恋人が待っている。
思わずスキップしたくなるのをこらえ、三人分のティーセットが乗ったワゴンを押しながら歩く。ティーポッドからは入れたばかりの紅茶が香り、まだ少し冷たい廊下の空気に溶けてゆく。ワゴンの下段にはこの日のために作ったクッキーが入っている。少しばかり不恰好だが、味は文句なし。何度も失敗を重ねた上での、苦心の末の会心の出来だ。
駆け出しそうになる気持ちを抑え、アメリアは進む。
ティーカップたちが触れ合う音さえも、彼女には可愛らしい笑い声に聞こえる。その音につられるように、彼女の鼻歌はトーンを上げた。
長い廊下はまだ続く。
彼女は鼻歌を歌いながら、ワゴンを押していた。
<3>
彼らは互いに疲弊していた。
たかがにらめっこと言えども、大の大人が真剣にやれば、それなりの重労働になるらしい。いつの間にやら頬に、額に、手のひらに、じっとりと汗を掻いていた。
勝敗はまだ、着きそうもない。
お互い、相手に対して敵意を抱いているわけではない。むしろどちらかと言えば、好感を抱いている。娘の、あるいは恋人の話を聞く限りでは、中々の好人物だと言うことが窺えた。
しかし、そのことと現在の状況は、まったくの別の話。彼らの立場が『恋人の父親』と『娘の恋人』である以上、避けては通れぬ道なのだ。
かといって、いきなり斬りかかるわけにも行かず、事態は硬直状態を保っていた。この均衡を崩すのはただ一つ。彼らの唯一の共通項。アメリアのみ。
妙に喉が渇いていた。今、何時なのか知りたいと思ったが、相手から目を逸らすと言うことは己の負けを認めること。それだけは、できない。
実際のところは勝負も何もあったものではないのだが、彼らはそう思い込んでいた。まるで頑なな巡礼者のように。
視線を外すことを許されぬ二人にとって、唯一、部屋に差し込む早春の日差しのみが、時の推移を彼らに教えた。その感覚に頼ってみると、どうやらまだ思ったほど時は進んではいないらしい。
感覚時間と現実時間のずれはますます広がるばかり。彼らの意識に、もはや過去の思い出は無く、未来のヴィジョンもまったく見えず。あるのはただ今、現在だけ。
視界に広がる相手の顔だけが、全てだった。
舞い踊る蝶の羽ばたきですら粘ついて見える、早春の午後。時が経つごとに粘性を増す蜂蜜のように、時間は緩慢に延びてゆく。
彼らはひたすら待っていた。アメリアをもってしてのみ訪れる、この静寂からの開放を。
<4>
ぴかぴかに磨かれた真鍮のドアノブは、触れるとひやりと冷たかった。
この向こうに二人がいる。
アメリアは幸せに頬を緩め、ノブをしっかり握ってそっと押した。廊下よりも少し温度の高い空気が流れ出す。だがそれだけではない。そこにはなにか、不穏な空気が漂っていた。
「お邪魔しまー、す……」
少しばかり緊張の混じった声は、尻窄みになり消えてゆく。彼らのにらめっこは、まだ続いていた。彼らとしても今すぐにでも振り返り、彼女にねぎらいの言葉をかけてやりたいのはやまやまなのだが、たとえ一瞬でも、相手より早く視線を逸らすことはできなかった。そこにはもはや意味など無く、ただ意地と惰性しか残っていない。しかし、そんなことがアメリアにわかろうはずもなかった。
とーさんもゼルガディスさんも、どうしちゃったのかしら。
彼女は何度か瞬きをしてみたが、目の前のシュールな光景に変化は見られず。声を掛けようにも、それすらはばかられる無言のプレッシャー。
それでも彼女は気を取り直し、とりあえず自分も席につこうとして、はたと気付いた。
こういう場合、自分はどちらにつけばいいのだろう?
彼女はこの屋敷の主であるフィリオネルの娘である。通常であれは父の隣に座し、客人をもてなすのが礼儀なのだが、今日の客人は特別だ。彼がこの部屋にいるそもそもの目的とこれからのことを考えれば、自分は彼の側にいるのが相応しいような気もする。だが、今現在はまだ、そのような立場ではないわけで……。
アメリアは立ちすくんでしまった。
目の前には二つのソファと、一つのテーブルと、にらみ合う二人の男。ソファは二つ。父の座っているのと、恋人の座っているの。中間は、無い。
窓の外は、もう春の匂い。
部屋の中では紅茶の香りが空気になじみ、音も無く広がっていく。しかしそれは、客人をもてなすという本来の目的を果たすこともできず、ただ芳醇な香りと共に心地好い熱を放射し続けていた。
<5>
最初に我に返ったのはアメリアだった。
視界の端に、何か動くものがあったのだ。それは彼女の正面、テーブルを越えた抜こう側にある窓の外。ひらひらと舞う一匹の蝶だった。
それで彼女は思い出した。
今日はとってもいいコトの起こる、いい日なのだ。
ワゴンにハンドルに乗せていた手をきゅっと握り、アメリアは大きく息を吸い込んだ。
まずは紅茶。少し冷めてしまったけれど、ほのかな甘い香りは消えてはいない。いつもはコーヒーばかり飲んでいる彼のために用意した、とっておきのダージリン。メイドに教えてもらい、震える手つきで淹れた特別なお茶なのだ。
アメリアはもう一度深呼吸し、ティーカップへと手を伸ばした。緊張した指先でカチャカチャと音を立てながらソーサーを敷き、カップを載せる。それを三組揃える。
彼らはまだにらめっこをやめてはいないが、その注意力の何割かがこちらに向けられ始めていることはわかる。それを横目で確認しながら、ティーポッドを持ち上げる。三人分の紅茶の入った少し大きめのティーポッドは予想よりも重く、持ち上げた腕がよろめき、小さな手から滑り落ちた。
「きゃっ……!」
『アメリアっ!!!』
アメリアの小さな悲鳴にかぶさるように響いた声は、同時だった。
彼女の手から落ちたポッドはテーブルの上に転がり、中から明るい琥珀色の紅茶が流れ出している。アメリアはそれを掬い上げようと慌てて両手を伸ばし、その手を掴まれた。
「バカ! 触らなくていい! 火傷したらどうするんだ!!」
「それより怪我は、怪我は無いのか!? アメリア!」
「え、ええ?」
彼女の右手はゼルガディスに、左手はフィリオネルにしっかりと掴まれていた。彼らはそれぞれ、自分の捕らえた手を撫で、ひっくり返し、どこか異状はないかとしきりに見分している。
「……ふっ、あ、はははっ! あははっ!!」
アメリアは堪え切れずに吹き出してしまった。
外見も何もかもまったく違う二人なのに、同じ表情をして同じ行動をとっている。それが妙におかしくて、嬉しくて、アメリアは笑いを止めることができなかった。
彼女が体をくの字に曲げて笑っているのを見て、男たちは思わず顔を見合わせた。つい先程まで、非常に不本意ながらも見詰め続けていた顔。ふてぶてしく、傲慢にすら思えた顔が、今は困ったように眉を寄せている。
「……く、はは、ははっ!」
「……ふ、ふはっはっはっ!」
先に笑い出したのはどちらだろう? うつむき、肩を震わせ笑うゼルガディスに対し、フィリオネルはのけぞるように顔を上げ豪快に笑っている。その二人に手を掴まれたままアメリアも、息が出来なくなるくらい思いっきり笑った。
そんなことを気にも留めず、窓の外では蝶たちが変わらぬ舞を踊っている。それを視界の端に留め、アメリアは幸せそうに微笑んだ。
ほら、やっぱり。
いい日にはいいコトが起こるのだ。
これから起こるとびっきりのいいコトに思いを馳せ、アメリアはもう一度、声を上げて笑い出した。
あとがき
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