Oh My ……!!
どんな屈強な戦士にも、まだあどけない子供にも、恐怖という感情は等しくある。それは本能のような根源的なものであったり、その人物の経験に起因するごく個人的なものであったりと、種類は様々ではあるが、誰もが何かしらの恐怖を持っている。
それは当然、このキメラの男にも当てはまる。いかに彼が強い精神力を持つ一流の魔法剣士でも、やはり恐怖を持っている。その大半は忌まわしい過去に起因するアレコレであるのだが、最近、それとは全く違う種類の恐怖が、一つ増えた。いや、それは恐怖というより畏怖に近い。
それは目の前にいる少女である。
大きな青い瞳は好奇心に輝き、常に何かを探しているような印象を与えている。肩で切りそろえられた黒髪の、その先が少しはねているのが、まるで彼女の性格を表しているかのようだ。大国の姫君などという肩書きは、その行動からは、全く想像できない。正義知らしめ、悪を砕くため旅する聖王都の巫女頭。
アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン。
彼女こそが、彼の最も新しく、かつ、最も扱いかねている恐怖の種だ。
無論、彼にとってたかが小娘一人ごとき、恐るるに足るものではない。たとえそれが、素手で魔族をぶっ飛ばす、超合金製であってもだ。しかし相手が、瞳を潤ませ、頬を赤らめやって来るともなれば話は別だ。いや、そうであったとしても、相手が彼女で無かったならば、恐怖を感じることも無かったであろう。相手がこの、アメリアでさえなければ。
「ゼルガディスさん、今日もがんばりましょうね。 手掛り、見つかるといいですね」
朝食の席で、彼女は元気に宣言する。
彼の行く遺跡に彼女もついて行くことは、もう決定事項らしい。今までの経験から考えると、どれだけ反論しようがこの決定が覆る可能性は、無いに等しい。
彼は口の中のものを咀嚼し、「ああ」とだけ呟いた。
───いつからこうなった?
四人での旅とはいえ、その内二人には確かな絆があった。彼らにその意識があったかどうかは知らないが、決して割り込むことのできない二人の会話は少なくなく、当然その分、余り者の二人、ゼルガディスとアメリアの会話も増えていった。
それは別に構わなかった。同じ旅をするもの同士、時には共に戦うこともある。お互いを理解しておくことは、生き抜く上でも必要だった。
やがて彼女は視線を絡め、嬉しそうに笑うようになった。
それも別に構わない。少女の視線に多少の気恥ずかしさは感じていたが、かといってどうこう言うものではない。何より彼女は嬉しそうだ。時に生命の危機に晒されるこの旅で、それでも笑えるということは、悪いことではない。
そして彼女は腕を絡め、手を繋ごうとするようになった。
さすがにこれには少し構った。ただの旅の仲間にならば、普通こんなことはすまい。彼女の気持ちに今更慌てても、もう遅い。しっかリ気付いていたくせに、ずっとそれから目を逸らしていたのだ。再び目にしたときそれは、ばっちり大きく育っていた。
そしてそれは現在も、すくすくと成長中らしい。
気分はまるで闘牛士。真っ赤な顔で、自分めがけて突っ込んでくる彼女から、すんでのところで身をかわす。それでも彼女はひるまない。今度こそはと狙いを定め、再び地を蹴りやって来る。
これが本当の闘牛ならば、彼はさぞかし見事に牛をさばいたことだろう。しかし、現実に突っ込んでくるのは牛ではなく、さばく訳にももちろんいかない。二度と向かってくる気にならないように、手酷く痛めつけて追い払うことも考えたが、それは彼にはできなかった。
彼女がそうであったように、彼にもまた、育つ気持ちがあったのだ。
だが、真っ直ぐ育った彼女のそれとは大きく違い、彼のはずいぶん、捻じ曲がっていた。
駆け寄ってくる足に、足払い。伸ばされる手を、捻り上げ。囁かれる愛の言葉には、うろたえながらも顔面チョップで応対した。
一応弁解しておくと、彼とてただ、照れ隠しのためにこのような蛮行に及んだわけではない。互いの立場、過去、身分、祖国、目的。彼が気持ちを押し込めようとする理由は、山ほどあった。何にも増して、当て無き旅を続けるために、自分を惹きつけ、留め置くものを持つわけにはいかなかった。しかし、このことを言葉を尽くして説明しようにも、口下手な彼にできようはずも無く、結局一番慣れ親しんだ形を持って、返答としてしまうのだった。
だが、どう言い訳をしようとも、実に自分勝手な理由と行為である。彼女に見限られても無理はない──彼はそう考えていた。ところがどっこい、彼女はそんな予測を、軽々と飛び越えた。
彼の理不尽な対応が、彼女の心の、おかしな所に火を点けたらしい。
無下に扱われれば扱われるほど、彼女は喰らいついて来た。その心情は、あの「ダメな子ほど可愛い」というやつかもしれない。もしくは「不良を更正させようとする熱血教師」だったのかもしれない。
何にしろ、彼は全くひるまぬ彼女を見るにつけ、深い安堵と共に、底知れぬ恐怖をひしひしと感じていた。いや、それは恐怖というより畏怖に近い。彼は信仰を持たないが、このときばかりは神にすがる人の気持ちがわかるような気がした。
「ゼルガディスさん、今日はとってもいい天気ですよね!」
隣を歩くアメリアの声は、いつものごとく、威勢が良かった。だが、ゼルガディスはその中に、どこか作り物めいた偽物臭さを感じていた。そしてそれは、たぶん正しい。
彼らが朝から出かけていった遺跡は、遺跡とはもう名ばかりの、ただの風化した巨石の集合だった。散らばる石からかつてこれを建設した先人たちの意図を読み取ることは、もはやできず。結果、彼らはまだ日も高いうちからの撤退を余儀なくされたのだ。
成果はゼロ。
いつもどおりの結果ながら、彼はやはり、少し落ち込む。アメリアとしては、そんな彼を少しでも元気付けたい一心からのおしゃべりなのだが、あいにく相手はそんな心使いを素直に受け取れるほど、素直な人間ではなかった。
「あのあの、ですからこれからお散歩に行きませんか。 地図で見たんですけど、ここから少し行ったところに湖があるんです。 実は見つけたときから行きたいなーって思ってて、せっかくですし、これから一緒に行ってみませんか」
「……うるさい」
「えっ」
「うるさいと言っている。行きたければどこへなりとも勝手に行け!」
気が付いたときには怒鳴っていた。少しの後ろめたさと抑え切れない破壊衝動。信じられないといったふうに、こちらを見詰める青い目が、ひどく癇に障った。
「大体俺は、お前について来いなんていったことは一度も無い。なのに毎回毎回…………迷惑だ! 二度と俺について来るな!」
アメリアの肩が、びくりと震えた。見開かれたままの瞳がじわりと揺らいだ。
これで終わりだ。
ゼルガディスはその感覚に、奇妙な満足感を覚えた。これで彼女は自分から離れて行く。自分を脅かす存在を、今、自分の手で排除したのだ。
そのはずなのに、彼は手足がすうっと冷たくなっていくのを感じた。
何故だか判らないが、それを彼女に悟らせてはならないと思った。ゆっくりと首を回し、視界からも彼女を排除したとき、叩きつけるような言葉が耳朶を打った。
「嘘です! それは嘘です! 確かにわたし、あなたに迷惑をかけてしまうこともあるけど、でも、あなたを一人になんてできません! 今のわたしじゃ力不足かもしれませんけど、あなたには必要なはずです!」
彼は震えた。怖いと思った。そう言い切れる彼女の強さが。そして彼女の言葉に、未練がましく縋りつきたくなる自分の弱さが。
「……やめろ。必要ない。俺には何も……」
「いいえ、あなたには必要です! あなたを愛している人が!」
背中に暖かな衝撃を受けた。彼女がぎゅっと、彼を捕まえていた。
「わたしはあなたが、好きなんです!!」
彼の体から、諦めと共に力が抜けていった。
捕まってしまった。何もかも。
それは幸せな諦観だった。体の隅々まで暖かい血が通い、確かなリズムを刻み始める。中心から末端へ、心地好い熱が広がっていく。固く凍り付いていたものが、緩み、溶け出していく感覚。
彼はその感覚に、もう抵抗はしなかった。だが、それでも彼女は彼を放さなかった。腰に回した腕に力を込め、自身を背中に押し付ける。その感触に眩暈を起こしそうになりながら、彼は空を仰ぎ見た。空は果てしなく、どこまでも突き抜けた青だった。
オー、マイ、───。
その続きが出てこない。彼は祈るべき神を持っていない。
彼はこのとき、唐突に理解した。人は縋るために神を必要とするのではない。どうしようもない時、己の無力を痛烈に実感したその時に、その名を吐き捨てるため、神が必要なのだ。
そんな神は持っていない。唯一、その代わりになれそうなものが、頭に浮かんだ。それはひどく場違いな気がした。だがそれ以外、代用できそうなものは無い。
彼は仕方なく、心の中でその名を呼んだ。
オー、マイ、スウィート、アメリア。
あんたはとびきり、怖い奴だ。
あとがき
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