目にはさやかに見えねども
頬を撫でる風がもたらした涼に、アメリアは足を止めた。
空気はまだほのかな湿り気を含んでいたが、体に纏わりつくこともなく
小さな火照りだけを絡め取り流れていった。
風が変わった。
顔を上げると、思っていたよりもずっと高いところに空があった。
いつも見ていたはずなのに、いつの間にあんな高いところへ行ってしまったのだろう。
それともただ、自分が気付かなかっただけなのだろうか。
「アメリア?」
名を呼ばれ我に返った。
数歩先でゼルガディスがこちらを振り返っている。
後ろから射す西日のせいで、彼の表情はよく見えなかった。
いつの間に、こんなに夕暮れが近づいていたのだろう。
「どうかしたのか?」
再度の問いかけに、答えにならない言葉を返す。
「夏が、終わってしまったんです」
夕暮れ迫る街道には、二人以外の人影は無かった。
西日に浮かぶゼルガディスのシルエットが腕を組み、首を垂れ大きくため息をついた。
彼の纏う空気が変わった。
顔が見えなくとも、アメリアにはわかる。
きっと、またお前は何を言い出すんだコノヤロウ、の表情をしているに違いない。
そこでアメリアは慌ててまくし立てた。
「夏がね、終わっちゃってたんですよう。今、気付いたとこなんですけど。
だって夏ですよ? ゼルガディスさんが嫌だって言うから、今年は海にも行けなかったし。
だから水着も着れなかったんですよ。今年の流行りのピンクの、着たかったのにぃ。
そのぶん山には行きましたけど、洞窟とか遺跡探索したりとか、あんまり夏っぽくなかったし。
そう! それでやぶ蚊にいっぱい刺されちゃったんですよ。
ゼルガディスさんは大丈夫でしょうけど、わたしは大変だったんですから。
あっ、でも花火は一緒に見れましたね! あれはとっても嬉しかったです!!
あとは、えーっと……」
「あー、アメリア? 夏は終わるもんだ。
夏に限らず、海には行かない。だが水着は着てもいい。ちゃんと見てやる。
山に行くのもいつものことだ。
蚊に刺されるのはお前がにぶいからだ。
腕に三匹もつけて気付かずに歩いてりゃ、刺されるのは当たり前だ。
花火は……まあ、よかった、な」
ゼルガディスはいちいち律儀に返事をした。
少々腑に落ちない部分もあったが、とりあえずそこは無視して、アメリアはさらに言い募る。
「はい! 花火はとってもよかったです!
でもまだいっぱい、やりたいことあったんですよ。
スイカ割りとか、ビーチバレーとか、あの無人島まで競争さっ! とか、
沈む夕日に正義の宣誓とか、波打ち際で追いかけっことか……」
「海から離れろっ! てか、んなこと誰がするかッ!!
だいだい、夏なんか待ってりゃそのうちまた来るもんだろうが!」
「だって来年は……!」
───来年も、一緒にいてくれますか?
その言葉は口に出せなかった。
自分たちに交わせる未来の約束など、無い。
今日は一緒にいる。
明日もきっと一緒にいる。
だが、一年後の未来は、どうしても見えなかった。
アメリアは唇を噛み、うつむいた。
それに気付き、ゼルガディスも視線を落とした。
望んではいけない。
望む答えは返ってはこない。
それは彼が冷たいからではなく、誠実だからだ。
叶うあても無い約束なんて、しないからだ。
アメリアは顔を上げられなかった。
今の自分はきっと、すごく情けない顔をしてる。
こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
伏せたままのアメリアの視界に、ゼルガディスの茶色い靴の先が覗く。
それでも顔を上げられないアメリアの頭上から、静かな声が降ってきた。
「すまない……アメリア」
その声を聞いたとたん、アメリアは思いっきり首を横に振っていた。
「ゼルガディスさんは悪くありません!
ゼルガディスさんは悪くありません!!
なんにも……何も、悪いものなんて、ありません……」
口から飛び出した声は泣きべそをかいていた。
熱い頬に当たる髪の毛が、冷たくて、痛い。
こんなかっこ悪い自分は嫌だった。
それでますます首を振るアメリアの体を、白いものが包み込んだ。
それに遮られ、涼やかな風が掻き消える。
アメリアはゼルガディスの腕の中にいた。
だが、背中に回された腕は、触れるか触れないかの位置で止まっている。
ゼルガディスは何も言わない。
これが自分たちの距離だ、と思う。
彼は悪くない。
わたしも悪くない。
どこにも悪いものなんて、ない。
ただ、互いの持ち物が違いすぎて、それが少し邪魔をして、うまく触れ合えないだけだ。
アメリアは目を閉じ、ゼルガディスの服にぎこちなく額で触れた。
「……何か。秋になったら、何かやりたいことはあるか?」
「やりたいこと…………。
秋になったら、二人でお月見したいです。
真っ赤なもみじの下を、二人で歩きたいです。
ニャラニャラじゃなくてもいいから、また二人で美味しいお鍋を食べたいです。
あと、あとそれから……」
「あとはゆっくり考えておけ。……なんとか、善処する」
まだ少し鼻声ではあったが、アメリアの声はもう泣いてはいなかった。
そのことに安堵したのか、ゼルガディスは穏やかな声音で答え、そしてゆっくりと離れていく。
その空間を埋めるかのように吹き込んだ風がやけに冷たく感じられて、思わずその手を掴んでいた。
「あと、手をつなぎたいです」
言ってから後悔した。
こんなことを言っても、ゼルガディスを困らせるだけだ。
この手の要求を彼が嫌がることは、今までの経験から散々思い知っていった。
ゼルガディスの困惑した顔が見たくなくて、アメリアは顔を背けた。
手を振り払われても泣かないようにと、心の中で必死に自分に言い聞かせる。
こわばった小さな手から筋張った冷たい手がするりと抜かれ、ぎゅっと目をつぶった瞬間、
彼女の手はたった今離れたばかりの手に握り返されていた。
「そうか」
ゼルガディスはそれだけ言って、アメリアの手を引いて歩き出した。
半歩前を行く彼の顔は、やはり西日でアメリアからは見えない。
夢かもしれない。
アメリアはそう思ったが、頬を撫でる風も、靴に伝わる柔らかな地面も、
つないだ手の感触も、消えることはなかった。
彼らの背後には夕闇が迫り、進む街道の先は大きく曲がり、木々に遮られて前は見えなかった。
それでも、今は、手をつないで一緒に歩いている。
アメリアはそっと目を閉じて、まだ生まれたばかりの初秋の風を全身で感じた。
そして少しだけ、つないだ指先に力を込めた。
あとがき
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