カナリアはもう、かえらない
──ここはどこだ。
彼は薄目を開け、まだ動きの鈍い頭の中でそう呟いた。
そこは小さな部屋だった。装飾は控えめだが重厚な机、椅子、そして彼の横たわっているベッドが置かれており、カーテン、ラグ、ベッドシーツにいたるまで、落ち着いた色合いで統一されている。一見そうとはわからないが、実に細かいところまで気配りの行き届いた部屋だった。しかし、普段彼が使用している部屋と比べれば、むしろ簡素と言えるかもしれない。
ここは、どこだ。
彼はもう、はっきりと目を開けていた。
見慣れない部屋だ。何故ここにいる? 自分は今まで───
その先の思考は言葉にはならなかった。彼は跳ねるように上体を起こし、慌てて周りを見回した。
小さな部屋だ。自分以外に人はいない。ドアは閉まっている。窓の外には、雲ひとつ無い青空が広がるばかりだ。
そんなことはとうにわかっている。だが、それでも彼は何か、自分を脅かす得体の知れない何かを探すように、息を荒げ、せわしなく首を動かした。
自分の計画に穴はなかったはずだ。失敗なんてあり得ない。あの男、そう、カンヅェルもそう言った。この白き聖王都を統べるべきは、我が父。いいや、この僕だ! あんな粗暴な伯父ではない。あんな正義かぶれの従兄弟ではない。誰よりもあんな────あんな女ではない!!
シーツを握り、唇を噛み締める。ただ一点を睨み続けた。だが視線の先にあるはず壁は、彼の視界には映らなかった。彼の脳裏に浮かぶのは、たった一人の顔。もう何年も見ていないはずなのに、すっと目を細め唇を歪ませる表情や、黒髪に滑る光の反射さえも、まざまざと思い浮かぶ。
グレイシア! 僕は君など、及びもつかないような高みに上ってみせる!!
* * *
まだ本当に幼かったころ、彼女のことを本当の姉だと思っていた。僕と彼女に、それぞれ違う両親がいるということはきちんと理解していたが、それでもそう思っていた。
一緒の城で暮らしていたせいだろうか。
いや、それだけではないだろう。
僕は彼女に対して、単に年上というだけではない、絶対に越えられない境界線を感じていた。もちろん、幼い子供にそこまで明確な意識は無かったはずだ。だが今にして思えば、自分は確かに、おぼろげながらもそれを感じていた。長ずるにつれ、どんどん鮮明に、そして質量を増していったその感覚を。
自分はそれを嫌悪していた。だから従兄弟よりも強い、兄弟という絆を持ちたかったのだと思う。今となっては、それも推測でしかないけれど。
* * *
彼は呼吸を整え、慎重に辺りの気配をうかがった。ドアの向こう側に、誰かいる。しばらく待ってみたが、その気配は動こうとはしない。
見張り──この僕に?
笑みを浮かべた彼の口から、乾いた笑い声が漏れた。しかしそれとは裏腹に、目はひどく冷めていた。
ドアノブに手をかけてみたが、やはり回らなかった。鍵が掛かっている。彼は再び、口の端を吊り上げた。だが、今そこから漏れてくるのは笑いでは無く、カオス・ワーズだった。
「ブラスト・ウェイブ」
少し掠れた声の後に、低い轟音が響いた。厚い扉に大穴が開く。もはやドアとしての機能を失ったそれをゆうゆうとくぐり抜け、彼は廊下へ踏み出した。
「ア、アルフレッド様!」
上がった驚きの声にゆっくりと首を回し、震える見張りを睥睨した。
* * *
彼女に本当の妹が誕生したとき、正直なところ、僕はその妹に嫉妬した。
決して、彼女の妹のことを嫌っていたわけではない。
それまで彼女に一番近かったのは、この僕だった。だけど、これからはそうじゃない。その単純な事実が妬ましかった。
遊ぶときはいつも三人一緒だった。自分たちより、少し年の離れた彼女の妹は人懐っこく、とても可愛かった。
しかしやがて、ふと離れた場所から二人を見つけたときなどに、そこに駆け寄るのをためらってしまうような、そんな感覚に襲われるようになった。それでも駆け寄っていったり、あるいは見つけていない振りをして、彼女たちから声をかけるのを待ってみたり。その後の行動は様々だったが、彼女たちの中に入りたいという気持ちは、いつも一緒だった。
今の自分を形作る、様々な感情が芽生え始めたのは、たぶんこの頃だったと思う。
そう。冗談めいた口調で呟かれる父の言葉が、決して冗談ではないことに気付き始めたのも、この頃だった。
* * *
「あなたをここから出すわけには参りません」
衛兵は、震える声でそう言った。その目に畏れの色はない。国に仕える兵士として仕事を全うするという、揺らぎない信念の宿った目だった。
その言葉を聞いた彼はゆっくりと振り返り、衛兵に向き直った。
彼はその目が、ひどく気に障った。
衛兵が一歩、後退る。腰に佩いた剣に手をやったが、それを抜くことはできなかった。
彼はそのことなど気にも留めない様子で笑み、一歩、踏み出した。顔に余裕を感じさせる微笑を湛えながらも、彼の瞳はどこか虚ろだった。なまじ表情が完璧なために、生気の無い瞳は尚更異様だった。
「おまえ、誰に向かって言っている?」
彼は優雅な動作で、衛兵に向かって手を突き出した。
* * *
そして彼女の母親がいなくなった。
いや、訂正しておこう。彼女の母親が、殺された。
葬儀の際、その遺体は目にしている。だが僕には、死という言葉の持つ意味と目の前の現実とがうまく繋がらなかった。
僕の母は、僕が生まれて間もなく病死している。だから、僕にとっての死は不在と同義だった。そこに喪失は含まれてはいない。第一、彼女に良く似たその母親は、前日まで本当に元気だったのだ。僕の心は驚きと信じられない気持ちでいっぱいで、悲しみを感じる余裕なんて無かった。
だけど、その死の瞬間に立ち会ったという彼女にとっては、どうだったのだろう。
母親の死は、彼女の心に何かを残した。
それが何であるのか、僕は知らない。傍若無人で開けっぴろげで、秘密などという繊細なものを持つには、あまりにも大雑把な性格の彼女だったが、それについてだけは、堅く口を閉ざした。その態度は僕だけでなく、彼女の妹や、父親に対しても変わらなかった。
そのままずっと、そしてとうとう最後まで、知ることはかなわなかった。
* * *
彼は無表情に、焼け焦げた死体を見下ろしていた。そしてふと、その死体が佩いている剣に、目を止めた。
必要かもしれない。
彼は無造作に剣の柄を握ると、鞘から一気に引き出した。
剣はまだ、熱を帯びていた。柄に滑り止めの革が巻いていなければ、火傷をしていたかもしれない。握った手のひらから、熱が全身に伝わってくる。
「……は、ははは、あはっ、は、ははっ!」
彼は笑い出していた。囁くような忍び笑いから、いつの間にか大声で笑っていた。息継ぎができなくなるくらいにまで。
だがその瞳はやはり虚ろで、その顔には何の表情も浮かんではいなかった。
* * *
彼女と最後に会ったのは、肌寒い夜だった。
その日は一日中雨が降り続いており、初夏だったはずなのに、湿った空気がひどく冷たかった。雨は夜になっても降り止まず、その音に僕は読書を諦めた。このとき僕が読んでいたのは魔道書だった。
従兄弟たちと共に、遊び半分で魔道の勉強をしたこともある。だが、それでは全然足りなかった。僕にはもっと必要だった。もっともっと、あらゆるものが。
魔道に関していえば、彼女の素質は見事の一言に尽きた。母親から受け継いだのであろう。膨大な魔力と、魔法構成への理解力、それは一緒に学んだ僕の目にも明らかだった。
妬ましい。
その感情を抱くことに、もはや抵抗は無かった。
いつからか芽生え始めた感情は、いまや僕の心に固く根を張り、がっちりと喰らい付いていた。
王宮の図書閲覧室から自室に帰る道の途中、小さな中庭を巡る回廊で、彼女は僕を待っていた。その姿を見ても、僕は別に驚かなかった。
来るべき時が来た。
ただそう思っただけだった。
「遅かったわね、アル」
「僕を待っててくれたのかい? 光栄だよ、グレイシア」
「ええ、本当に感謝なさい。このわたしが待っててあげたのは、あなたが初めてよ」
「そうだろうね。君はいつも、人を待たせてばかりだから」
この程度の嫌味で動じる彼女ではない。互いの、さぐるような視線が交錯する。心地好い緊張感。僕は背筋を駆け上っていく、ゾクゾクするような高揚を感じていた。
「で、どうして僕を待っててくれたんだい?」
「……ずっとあなたのことは、一度きっちりシメとかなきゃって思っていたわ。いつからそう思い始めたかは、もう、忘れたけど」
「それが今日なのかい? 舞台効果は満点だね」
回廊に灯る小さな明かりに照らし出された中庭は、まさに陰鬱という言葉がぴったりだった。
途切れること無い、単調な雨音の響く空間。雨に打たれた草花は頭を垂れ、重く沈む。湿り気を帯びた冷気はかすかに土の匂いを纏い、足元から這い上がる。その中で、灰色の空に下に浮かび上がる暗い深緑だけが、妙に生々しかった。それは、いつも見慣れた草花ではなく、暗闇に蠢く異形の者たちのように、僕には見えた。
「ま、あなたとわたしなら、こんなものじゃないの」
「……そうだね。君と僕には、きっとこの場所こそがふさわしい」
本気でそう思った。白い王宮の昏い中庭。僕たちには、この場所こそが、ふさわしい。
「それじゃ、ちゃっちゃと本題に入るわよ。アル、あなたがどれだけ欲しがろうとも、それはあなたのものじゃないわ。諦めなさい」
彼女らしい、馬鹿みたいにまっすぐで直接的な言葉だった。不意を突かれ、一瞬、笑顔が剥がれる。
「言ってくれるね。けど、僕が何を欲しがっているのか、君にわかるのかい?」
「ええ、たぶん」
「でも僕は欲しいんだよ」
僕はゆっくりと、そう言った。何故だか急に泣き出したい気分になった。泣きながら空を仰いで、大声で笑ってしまうような。しかし彼女は無表情に、ただ目をすっと細めただけだった。僕はそんな気持ちを堪えながら、彼女に問いかけた。
「グレイシア。君は僕がそう言われて、はいそうですかと頷くとでも思っているわけじゃ……ないよね?」
「もちろん。あなたがそんな聞き分けのいい子だったら、わざわざこんな場所で待ち伏せたりしなかったわ」
彼女は風のない水面のように平静だった。いつものかしましい姿からは、想像もつかないくらいに。けど僕はずっと、この彼女を知っていた。誰に対しても尊大で、揺らがない。いつだって自分を見下ろしていた、この瞳。
「それでも、もう一度だけ言っておくわ。アル、諦めなさい」
彼女の瞳に揺らぎは無い。その水面を波立てることができるのは、何なのか。
一つだけ確かなことは、それはこの僕ではないと言うことだ。
長い長い時を経て導き出された結論。僕ではない。それを思うと、体の底の方から熱く、どす黒い何かがせり上がって来るようだった。僕の表面を破り、飛び出そうとする、灼熱の何かが。
「…………諦めろだって? はっ! 君に指図される覚えはないね。だいたい、君の僕の何がわかると言うんだ? そうだ。昔っからそうだ。お前はいつだって僕のことを見下ろして……!」
口調をコントロールできない。表情をコントロールできない。誰にも見せたことのない顔を、今、自分は彼女の前に晒している。けれどきっと、彼女はこの僕のことを知っていた。僕がこの彼女を知っているように。
「いいか! 僕はすべてを手に入れてみせる! すべてだ! お前が受け取るはずだったもの、そうでないもの、全部だっ!! すべて……すべて僕のものだ!!」
「それは無理ね」
「ふざけるなっ!! お前は何か、僕のこと、全部理解してるつもりらしいけどな、そんなのは大嘘だ!! いいか、見てろよ? お前になんか想像もつかないような方法で、僕が、僕こそがすべてを……」
「無理よ。あなたはこれから、わたしを失うのだから」
煮え立った頭に、彼女の冷ややかな声が突き刺さった。
「…………何だって?」
頭の中で熱を帯び、とぐろを巻いていた何かが一気に抜けていった。いや、それだけじゃない。思考も、何もかもが抜け落ちていった。彼女の言葉の意味が、僕には本気でわからなかった。
「わたしは今からここを出て行くわ。でも、それはあなたにとって、単にわたしがいなくなるということではない。あなたはここで、このわたしを永遠に失うのよ」
「それは、もう二度とここには帰らないという意味か」
「いいえ、違うわ。わたしはあなたに……そうね、うまく言えないけど、ある種の同族意識みたいなものを持っていた。仲間意識とか、そんな甘いやつじゃないわ。同じ穴のムジナって言うのかしら、こういうの。それを今、ここで断ち切ると言っているの」
彼女の態度はいつもと同じように見えた。僕にはそれが、ひどく不思議だった。
「あなたもわたしも、もっと広い世界を見るべきなのよ。きっと。居心地のいい小さな巣の中で、ただ口を開け、与えられるのを待っている。そんなのは御免だわ」
「……は、随分かっこいいことを言ってるが、ただの甘えじゃないか。怖くなったのか? この王宮が!! 逃げるんならとっとと尻尾巻いて逃げ出せよ! だが僕は違う。この誇り高き王家に生まれたものとして、責務を全うし…」
「別に誇り高くなんかないわよ。こんな家」
彼女は低く、吐き捨てるように、僕の言葉を遮った。
「わたしの誇りは、こんなものなんかに左右されたりなんかしない。責務なんてクソ喰らえ!! わたしは、わたし自身の誇りと、わたしの守りたいものだけ守る。こんな城なんか、壊れてしまえばいいのよっ!!!」
単調な雨音をかき消し、叩きつけるような彼女の声が響いた。
こんな顔の彼女は初めて見た。いつもの憎らしいほどの余裕は、どこにも無かった。形の良い唇は憤怒に歪み、その目から、今にも炎が噴きこぼれそうだった。彼女はきつく唇を噛み、握った拳を震わせていた。きっとそうしなければ、彼女の中からあふれ出しそうになる何かを、堪えることができなかったのだ。
「…………あなたもわたしも、取り憑かれてるのよ。このちっぽけな、白いお城に」
歯軋りの音すら聞こえてきそうな程に食いしばられた口が緩むのに、どれだけ時間がかかったのだろうか。
その唇から力ない言葉が吐き出されるまで、僕は自分が呼吸していたかどうかの記憶さえ危うい。僕はただ、息を潜め立ち尽くしているだけだった。
だが、黒のマントをばさりと跳ね上げ再び僕に向き直ったとき、彼女はもう、いつもの彼女だった。
「……言いたいことは全部言ったわ。あとは別れの挨拶だけね」
「わか、れ……?」
彼女が何を言っているのか、このときの僕にはさっぱりわからなかった。だって彼女はここにいるのに。今まで一緒にいたように、今だって一緒にここにいるのに。
「さようなら、アル」
彼女の唇が、そうゆっくりと動くのを見た。それでも僕にはわからなかった。ただ、彼女がこちらに背を向けた瞬間、僕は踏み出し、彼女の腕を掴んでいた。
「待て……。待てよグレイシアっ!!」
振り返った彼女の眼は、この雨の夜の空気よりもずっと冷たかった。まるで全身に冷水を掛けられたようで、僕はこわばった舌の根で、続く言葉を紡ぐことができなかった。
「僕は……。僕は……」
「あなたは、何?」
「僕は…………」
彼女の問いに、僕はとうとう答えを出せなかった。
「……さようなら、アル。わたしは、自分が誰かもわからないような男に、興味は無いわ」
彼女は冷たく言い放ち、僕の手を振り払った。それほど強く振り払われたわけではないのに、僕は大きくよろめき、冷たい雨の降る中庭に落ちた。だが、彼女は振り返らずに歩いていった。いつもと変わらない、ハイヒールの小気味良い音を響かせて。その音が降り続く雨の中に消えても、僕はまだ動けなかった。
やがて僕は、そのままぬかるんだ地面に座りこんだ。
雨は容赦なく、この身を打った。水を吸った服が張り付き、重く、冷たく、僕に纏わりついた。でも僕は動かなかった。
ここにいれば、わからないから。
この頬を伝う雫が、空から降って来たものなのか、目から溢れ出たものなのか。
そこは建物にぐるりを囲まれた小さな中庭だった。衛兵も立っていない。僕以外、誰もいない。もう、いない。
僕は誰にも、泣いていることを悟られてはならなかった。この、僕自身に対してさえも。
* * *
顔を上げると、廊下に並ぶ窓からこの王都の中心、聖堂の一番高い尖塔が見えた。その屋根が太陽を反射し、きつい光が目を刺した。
彼は反射的に目を閉じそうになり、目を眇めてそれを堪えた。白い光の向こう側に、大空へと飛び立っていく鳥の影が見えたような気がしたのだ。だが、どれだけ探しても、もう見つからない。空はただ青く、風は無く、まるでここだけ時間から切り取られてしまったかのように、静かだった。
涙が出そうになった。それでも彼は、食い入るように尖塔を見詰め続けた。
くやしかった。
何もかもが。
最後に睨むような一瞥をくれ、彼は歩き出した。窓の外が明るすぎたせいだろうか。これから彼が開く扉へと続く廊下は、薄暗く濁って見えた。
彼はただ、前だけを見て歩き続けた。手にした抜き身の剣がひどく重く感じた。
それでも彼は、止まるわけにはいかなかった。
あとがき
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