始まりの時 おまけ
「おうリナ、おはよーさん」
「リナ、おはよっ! ちょっと遅いわよ」
「朝からたるんでるな」
「…………」
口々に自分にかけられるその日最初の言葉に、リナは眉を顰めた。
今朝の彼女のご機嫌は、よろしくない。昨夜、ちょっとした言い争いがあったのと、そのストレス解消が出来なかったせいである。なのにその原因である仲間たちは皆、同じテーブルに着き、実に楽しそうに談笑している。
まったくもう、なんなのよ。
顰めた眉が、ますます眉間に寄っていく。朝の爽やかな空気とは裏腹に、彼女の機嫌はさらに下降の一途を辿る。彼女はそれを自覚し、そして思う。朝からこのようなストレスを抱えることは、精神衛生上、そして何よりお肌に悪い。ならばこのストレスを晴らすのみ!
彼女はその対象を、朝からいきなり嫌味をかましてくれた男に定めた。
「あーら、おはよう。昨日はどっかの誰かさんが駄々こねてくれたせいで目が冴えちゃって〜」
わざとらしすぎるくらいに、ねちっこく。リナは半眼で仲間に話しかけながら、仲間の待つテーブルにゆっくりと歩み寄る。しかし、彼らは誰も、彼女の望む反応を返してはくれなかった。
「……なあ、どっかの誰かさんって、誰だ?」
「さあ。わたしは昨日は晩ごはん以来、リナと顔を合わせていないもの。ゼルガディスさん、何か知ってます?」
「さあな。ただの寝坊の八つ当たりじゃないのか?」
のんきな彼らの声に、リナの機嫌はさらに下がった。それに反比例するかのごとく、怒りのボルテージはぐんぐんと急上昇。彼女は湧き上がる衝動に従い、思いっきり噛み付いた。
「ちょっと待てぃ!! あんた、昨日の今日で、何いけしゃーしゃーと言ってくれてんのよ!」
「こらこら。リナ、八つ当たりは良くないぞ」
「くぉらガウリイ! あんたも昨日の今日であっさり忘れるんじゃないのっ! もちょっと頭使わないと、ノーミソ発酵してヨーグルトになって、もっと分解が進んでそのうち腐って流れてっちゃうわよ!!」
「リナ、落ち着いて。例え話でもガウリイさんにそんなムズカシイこと、言っちゃいけないわ」
「ムズカシかろーがカンタンだろーが、どっちにしろご飯食べたら忘れちゃうんだからいーのよ!」
「それは確かにそうだけど……」
「お前ら、オレのことを何だと思って……」
「んじゃガウリイ、ちゃんと憶えてられるのね。テストするわよ?」
「すまん。オレが悪かった」
「うむ。その謙虚な態度は、なかなかよろしい」
頭を下げるガウリイを前に、いくらか溜飲を下げるリナ。と、その視界の端に、一人涼しげにモーニングコーヒーを啜る男が映る。彼女はたちまちのうちに再び柳眉を逆立てて、その男に向かい吠え立てた。
「ちょっとゼル! 一人だけ我関せずみたいな顔してんじゃないわよ! そもそもの原因はあんたでしょーがっ!」
「何のことだかわからんな」
「くーっ!! あ〜ん〜た〜ね〜〜!」
あくまで自分のペースを乱さないゼルガディスに、リナは頭を掻き毟って憤りの唸り声を上げる。そんな彼女に、横手から声が掛けられた。
「ちょっとリナ。ゼルガディスさんに八つ当たりしちゃダメよ」
「アメリア? 何であんたがゼルをかばうのよ?」
「リナ、あなたは知らないでしょうけど、昨日ゼルガディスさん、あなたにいぢめられてヤケ酒煽ってたのよ」
「はっ?」 「ちょっと待てっ!!」
二種類の声が重なった。不思議そうに首を傾げるリナとは対照的に、ゼルガディスは猛然とアメリアに向かって声を荒げる。
「誰がいぢめられた? 誰がヤケ酒をした!? 俺はただ、酒を飲んでいただけだっ!」
「ゼルガディスさん、隠さなくてもいいんですよ。こういうことはちゃんと言わなきゃ! お酒に逃げたことを悔やんでいるのはわかりますが、それはこれから正していけば……」
「あんた、人の話聞いてんのか!? 誰が酒に逃げただと……!」
「ご心配には及びません! 正義を愛する心さえあれば、魔族もアル中も恐るるに足らずっ!!」
「誰がアル中だっ!!」
「それは昨日までのゼルガディスさんですっ! でもだいじょうぶ! 今日からお酒を断って、正義の道を歩むのならば、きっとアル中から足を洗えますよ」
「聞けっ! 人の話をッ!!!」
声を荒げるゼルガディスと、素で彼を煽り続けるアメリア。上昇し続ける二人のテンションを前にし、リナは急速に平静を取り戻しつつあった。傍で見ていると良くわかるが、自分に関係の無い口喧嘩というものは、非常に馬鹿馬鹿しいものなのだ。
確かにあの子、時々話が通じないのよね。でも今日はゼルに嫌味言われたし、ま、いっか。
のんびりと傍観を決め込んだリナの視界を、すっと白いものが遮った。顔を上げると彼女の相棒が、爽やかな朝にふさわしい爽やかな微笑みで食堂のメニューを差し出していた。
「ほらリナ、今日は何食べるんだ? 昨日お前が気に入ってたスズキのパイ包み、まだあるみたいだぜ」
「ん、ガウリイにしちゃ気が利くじゃない。そーねー、じゃああたしは……」
山間の小さな村の小さな宿は、昨夜と同じく、かつてない賑わいで朝を迎えることとなった。
爽やかに晴れ渡った空の下、ゼルガディスはいつもと同じく、黙々と道を歩いている。彼の前を、長い栗毛と金髪を揺らしながら、リナとガウリイが歩いているのもいつものことである。ただ、今日はその彼の隣にぴょこぴょこと跳ねる黒髪の少女の姿があった。
「ねぇゼルガディスさん、むっつりしちゃってどーしたんです? せっかくなんだから、なにかお話ししましょうよ」
アメリアは無邪気にそう笑いかける。今朝のことなど、彼女にとってはいつもの正義活動の一環に過ぎない。しかし、ゼルガディスにとってはそうでない。彼は全身に不機嫌のオーラを纏っていた。
「ね、ね、返事くらいしてくださいよ」
「……話がしたけりゃ、リナんとこ行ってこい」
「いいえ。今日はゼルガディスさんとお話したいんです!」
「あんたの好きな正義とやらについてなら、勝手に話せ。だが俺は一切聞かん」
「ひどっ! じゃあ正義についてはまた今度ということで、その他について話しましょう」
「正義について話す今度など無い。だいたい、その他ってのは何なんだ……?」
「その他諸々、イロイロです!」
不機嫌ながらも完全無視というわけにもいかず、とりあえず二人の会話は続けられた。彼らの前方では、彼らよりもはるかにスムーズに、リナとガウリイが会話を交わしている。ゼルガディスはその前方だけ向き、隣には目もくれず歩いていた。アメリアはそんな彼に向かってしきりに話しかけてはいるものの、なかなか思わしい答えは返ってこない。
そのようなやり取りを何度か経たのち、小さな沈黙が訪れる。アメリアは視線を前方に戻し、少ししてからぽつりと呟いた。
「だってやっぱり、いつも二人の邪魔してちゃ、悪いもの」
先程までと比べ、若干声のトーンは下がっていた。ゼルガディスが横目で彼女を見やると、彼女は唇を尖らせて、複雑そうな面持ちで前を見ていた。しかしすぐにこちらにぱっと振り返り、いつもの笑顔で話し始める。
「ね、ね、ゼルガディスさんもそう思いません? あの二人、リナはすぐに照れちゃうしガウリイさんはクラゲだけど、イイカンジですよねっ!」
『イイカンジ』というのがイマイチ良くわからなかったが、彼女の勢いに流されるように、ゼルガディスは頷いていた。
「……まあ、そうだろうな」
「ですよねっ!! こういうとき、トモダチとしてはやっぱり、二人を応援してあげるべきよねっ」
「トモダチ、ねぇ……」
昨日、誰かさんから聞いたその単語に反応し、ゼルガディスは顔をしかめた。それは、同時に昨夜の大人気ない自分を思い出しての反応だったのだが、アメリアがそんなことを知っているはずもない。むっつりとした彼の顔を見て、彼女は少しうつむいて言った。
「わたしから勝手に言ったことだし、そうは見えないかもしれないけど、でもわたしはそう思ってるの。だから、やっぱり、邪魔しちゃダメですよね……」
先ほど以上に落ち込んだ声に、ゼルガディスは思わず横を振り返った。アメリアはしょんぼりとした様子で歩いている。いつも跳ね回っているような娘なだけに、その姿は彼の目に、よりいっそう哀れに映った。
思わずうろたえ、慌てて自分の態度と発言を反芻し、ゼルガディスはようやく彼女の心情に至った。まぶたの裏に、昨夜、真っ赤になりながら彼女のことをトモダチだと言い切った、栗毛の魔導師の姿が浮かぶ。
かわいいもんだ。
彼は小さく苦笑し、彼女に向かって言ってやった。
「そう、悲観する必要はないぞ」
「え?」
「昨日、リナが言っていた。アメリアはあたしのトモダチなんだから、ってな」
「えっ!?」
アメリアの目はまん丸になっていた。その顔のまま、歩いていた足まで止まっている。一瞬固まり、そして次の瞬間、まるでバネ仕掛けのおもちゃのように、あたふたとぎこちなく動き始める。
「そ、それって本当!? あのリナが言ってたのっ!?」
「『あのリナ』がどのリナなのかは知らないが、昨夜、確かに言っていた」
「〜〜〜っ!!」
握った拳を震わせて、アメリアは真っ赤な顔で食い入るように前方を見詰めた。その視線の先には、言うまでもない。栗毛の髪と黒のマントが揺れている。
彼女の大変わかりやすい反応を見て、ゼルガディスはマスクで隠した口許に、笑い声を忍ばせた。彼女はそれに気付く余裕もなく、拳どころか肩まで震わせ立ち尽くしている。どうなることかと見ていると、やがて彼女の震えがぴたりと止まり、一つ大きく深呼吸をし、勢いよく彼に振り返った。
「ゼルガディスさん! ガウリイさんに、ごめんねって伝えておいてくださいっ!」
「は?」
「あっ、あとそれと、今日はダメだけどまた今度、ちゃんとお話しましょう!」
「はぁ?」
「じゃっ!!」
彼女はびしっと片手を上げると、猛然と駆け出した。そしてその勢いのまま、長い栗毛のかかる小さな背中に、思いっきりぶちかましをかけた。
唖然としているゼルガディスの視線の先で、転びそうになった栗毛の少女が怒り狂い、黒髪の少女の首を絞め、それを解いてまた文句を捲くし立て、黒髪の少女が手を合わせて笑顔で何度か頭を下げ、やがて、少女たちは仲良く歩き出した。あとに残されたのは、呆然と佇む金髪の戦士、一人のみ。
ゼルガディスは笑いを堪えきれず、肩を震わせながら歩き出した。そして戦士の隣まで来ると、ぽんっとその肩に手を乗せ、口を開いた。
「旦那、アメリアからの伝言だ」
「……」
「ごめんね、だと」
「…………そりゃないぜ」
がっくりとうなだれたガウリイの肩を、同情と励ましと少々のからかいを込めて二・三度叩き、ゼルガディスは歩き出した。うなだれたままのガウリイもそれに続き、恨めしそうに口を開く。
「今日はアメリア、お前と話してたんじゃなかったのかよ」
「ああ、話していたな。さっきまでは」
「なんで今はそうじゃないんだよ」
「さあな」
「……お前って、トモダチがいのない奴だな」
本日二度目の単語が耳に入り、ゼルガディスの足が止まる。
「いつから俺と旦那がトモダチとやらになったんだ?」
「あれ、そうじゃなかったっけ?」
ガウリイは心底不思議そうに問い返す。いつもと同じ、あっけらかんとした表情に、ゼルガディスは確かめるように数回、瞬きをした。しかしもちろん、目の前の風景に変化は無い。
……どいつもこいつも、本当におめでたい。
今度は彼が肩を落とす番だった。少しばかりこそばゆいような諦めを噛み締めつつ、彼は投げやりにガウリイに答えた。
「もう勝手にしてくれ。あんたらは本当に、似た者同士だな」
「似た者って、オレとアメリアが?」
「……なんならリナも入れてやってもいい」
「そうか!」
なぜか嬉しそうに頷くガウリイを横目に、ゼルガディスは再び足を進めようとした。だが、一歩も行かないうちにかかったガウリイの言葉で、彼の足は再び固まることとなった。
「じゃー、ゼル、お前も入ってもいいぞ」
「はぁ?」
「似た者同士だからな。うん」
立ち止まったままのゼルガディスを追い抜き、ガウリイは意気揚々と歩いていく。その背中と、さらに前を行く二人の少女の背中を思わず見比べた。彼の苦悩などつゆ知らず、仲間たちはその背中すらも誇らしげに歩いている。ゼルガディスは一人、ため息をついた。
「…………もう、どうにでもしてくれ」
そうひとりごち、ゆっくりと歩き出す。そしてそっとマスクの下で、小さな小さな笑みを零した。
BACK